源氏物語の葵の上の物語はご存知の方多いですよね。
漫画にもなり、演劇でもいろいろな形で演じられてきました。
能にも取り上げられています。
能楽でこの物語を楽しんでみたいと思いませんか?
そもそも神事である能は、供養として舞台を奉納していると言えます。
皆様がご覧になり、葵の上、六条の御息所に共感することが供養となっているのです。
葵の花は意外に大輪の派手な花です。
葵の上はきっと華やかな美人だったのでしょうね。でも。。
能『葵上』では葵の上は登場しないんです。。。びっくりでしょう?
正確には、
舞台の上に置かれた小袖で
病に伏せっている葵の上を表現しているのです。
般若の面(おもて)で表される六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)は、
光源氏の心が葵の上に移ってしまい、
嫉妬に苦しみ、
ついに生霊となって葵の上を呪ってしまいます。
それではストーリーに入りますね。
苦しむ葵の上
臣下は
有名な怨霊呼び寄せの梓巫女(あずさみこ)である照日の神子(てるひのみこ)に
葵の上をみて欲しいと頼みます。
ここでちょっと前の私の記事
「異世界の交通手段」にも書いた
「葦毛の馬に乗って・・」という意味の
『寄り人は今ぞ寄りくる長濱の。葦毛の駒に。手綱ゆりかけ』
という歌を謡い霊を呼び寄せます。
六条御息所が現れますが、
姿はまだ見えません。
しかし、葵祭での車争いのことを口にします。
ーーー葵祭で
源氏の姿を一目見ようと
良い位置に車を陣取った六条御息所であったが、
源氏の子を身篭っていて気分がすぐれないと
一度は見に行かないことにしていた葵の上が
やはり見に行くことにして、
横暴に六条御息所の車を押し除けた!(◎_◎;)事件。
身分の高い六条御息所にとっては耐え難い屈辱でした。ーーー
それで臣下が六条御息所であることに気づき、
見えない姿に向かって名乗るように言います。
六条御息所の霊はその正体を認め、
昔の恨みをはらすために現れたと語ります。
「思い知らずや世の中の情けは人のためならず」
よく思い知るが良い、
情けは人のためではない、
人に辛く当たれば必ず自分に返ってくるのだ、と。
霊は枕元に立ち、
葵の上を打ちます。
神子は怒りが六条御息所を苦しめている、
それを知るようにいうが、
葵の上こそこの苦しい恨めしい心を知るべきだと訴えます。
神子の力では如何ともしがたく
横川の小聖(よかわのこひじり)が呼ばれます。
小聖の調伏により、
ついに鬼の姿をした六条御息所の生霊が現れるのです。
(この時の六条御息所の面は白般若です。
こんな姿にならざる得ない悲しみと苦しみに満ちた凄まじい面です。
装束は鱗を表す、
逆三角が重なった模様の唐織でこの役柄のときに使われるものです。)
御息所は小聖に痛い目に会う前に帰れと言います。
それでも小聖は必死に祈ります。
御息所はとうとう祈り伏せられるのです。
・・・
嫉妬に苦しみ、苦しめられる二人の女性のお話です。
能では行者の祈りにより、
鬼も心を和らげられ、
菩薩に迎えられることになりありがたい、
と締め括られます。
どうしたら良いんでしょうね。
こういう苦しみに取り憑かれたら。
般若に変わる前の六条御息所の面もそれはそれは辛そうな表情なんですよ。
亡くなった葵の上の気持ちはどうなんでしょう。
和らいで菩薩に向かえられるようになるには、
相当な心の変化の過程が必要な気がするんですが、
そこは仏の戒めでスッと持っていかれるのが能のスタイル。
舞台そのものが供養だと思っていても、
修行の足りない私はついていけない気持ちもあるのでした。
コメント