逆立ちをしてみようー「竹生島」「野守」「蝉丸」

わたしは逆立ちをするのが好きです。

Head standingで頭頂部をつけて頭を両手で支え、

両腕を三角にして立つスタイル。

シルシャーサナというヨガのポーズです。

逆さまになると、わかることがたくさんあると思うんですよ。

上を下に。

木の根が伸びるのは下?それも逆さまになってみるとひっくり返ります。

根を上に上に伸ばし、枝を下に下に伸ばす。

鹿児島の高隈ダム(大隅湖)を

子供の頃にカヌーで周遊したことがあります。

なんの音もしない、静かな湖面。

カヌーって自分は水面にいて進行方向を見てるんです。

パドルを差し込み水面をすーっと切り開いて行く。

まだダムになってそれほど経っていなかったのか、

水面下に建物や木の姿が見えました。

もう一つの世界がそこにあるような、

ぞくぞくするような世界。

能の世界でも同じような体験ができます。

演目『竹生島』や『野守』、『蝉丸』などです。

まずは『竹生島』についてお話しします。

琵琶湖にある竹生島という島があります。

能『竹生島』でも、

「島に近づくと緑の木々の反射が沈んでいく、

魚たちが枝を登って行く、

月は湖の下に潜る」

という描写があります。

湖面から、二つの世界を一度に見る。

この演目には、

女人禁制なのにお参りしようとする女性が咎められる場面があります。

そこで、弁財天は如来の再来であり、

女人だからと言って隔てはしないと言い切ります。

それもこの演目『竹生島』の大きなテーマだろうと思います。

同じ琵琶湖の伊崎寺というところでは、

千年以上続く「伊崎のさお飛び」という行事があるそうです。

人々の願いを背負った僧侶が自らを犠牲にして湖に飛び込み、

陸へ戻ることで生まれ変わる。

そういう行事だそうです。

能『竹生島』では島の神秘を見せましょうと言って、

狂言方のつとめる神職が岩飛びをして見せます。

岩から湖に飛び込み上がってきてくしゃみをして見せます。

やはり狂言方。

笑いを誘いながら退場します。

水の上は生、下は死を表す。水に飛び込んで戻ることは生還を意味する。

生も死も一つである。

男も女も一つである。

能『野守』でのエピソードを一つ。

帝が鷹狩をした際に、鷹を逃してしまって、

あちらこちらを探していると、そこへ野守(野の番人)がやってきた。

帝が「お前は御鷹の行方を知っているか」とお尋ねになった。

老人は「はい、この水の底に御鷹がおります。」と答える。

狩人達は「どうして、水の中に御鷹がいるはずがあるものか」と言いながら、

ばっと水際に寄り集まって見ると、

なるほど確かに水底に白斑の鷹がいるように見えますが、

よく見ると木の下の水に映った影で、真の鷹は木の枝にとまっていたのです。

帝は野守の鏡と称えて歌を詠みました。

水の中の鷹、映し出されたものが真実であるということ。

そのような力を持った鏡が欲しいものだ、という意の和歌でした。

能『蝉丸』について

蝉丸の宮は皇子であるが盲目であったため、

帝の命で、ただ一つ琵琶(楽器)だけを持って

逢坂山に捨てられました。

前世の罪行を現世で消滅させ

後の生で良いことがあるようにとの意図でした。

その蝉丸の姉、逆髪(さかがみ)の宮も狂人となり

遠いところまで迷い歩き出ており、

逢坂山で二人が再会するお話です。

逆髪は、笑う子供達に向かって

「髪が逆さまなのがおかしいか!

確かに逆さまなのはおかしいだろう。

でもお前達の身分で皇女の私を笑う方が逆さまだ。

面白い。逆さまなことは人間の目の前にいくつもある。

花の種は地に埋まるが、

それが成長すれば上へ上へと上がっていく。

月は高い天にかかっていながら、

その影は深い水底に映っている。

そのいづれが順で、いづれが逆かわからない。

私自身が皇女でありながら庶民に下り、

髪は体から生えて空に向かっている。

これら全て、順逆二つの理を示している。面白い。」

と言います。

仏教用語に、ににふに(而二不二)という言葉があります。

二つであって二つでない。

裏と表があって一体である。一つである、という意味です。

そういえば、竹生島に出てきたくしゃみの神職は、

竹生島、第一の宝として、二股の竹を見せるのです。

#能は仕込みが好き

頭を下にして全てをひっくり返して見てみませんか?

*謡曲大観を参考に書いています。

コメント

タイトルとURLをコピーしました